<12月号コラム> いじめられたり、いじめたり 年の瀬、マスメディアの話題は相変わらず子どもたちのいじめ問題だ。切なく哀しいニュースばかりだ。しかし、目をそむけるわけにもいかない。私自身の子ども時代のいじめはどういだったのか。思い出すことから考えてみたくなった。 私自身がいじめられた経験は、小学校3、4年生のころにある。いじめっ子は、I君という同級生のガキ大将だった。キッカケは私とI君が、ちょっとした喧嘩をしたことだった。授業が始まる直前に、何が原因か覚えていないが、座ったまま机越しにつかみあいが始まった。折から担任の先生が現れて、私たちは2人とも叱られた。 喧嘩両成敗だが、I君と私は先生に対する態度が違った。I君は立ち上がるなり、「先生、ごめんなさい」と謝り、大粒の涙をハラハラとこぼした。私はムッツリと何も言わず立ちもしなかった。悪いのはI君で、私は悪くないというつもりだったのだろう。すぐ授業が始まり、その場はそれで収まった。 収まらないのはI君である。「相羽は先生にヒイキされている」と怒りだした。それからI君とその子分たちの私に対するいじめが始まった。子どもの間で「ギュウタ」と呼ぶプロレスの真似みたいたリンチ。背後から蹴飛ばされたり、体育の時間の裸の背中を爪でひっかかれたり、休み時間に机をひっくり返されたり、筆箱を投げられたり。 私もまいって登校拒否になりかけた。しかし、あるとき決心してI君と対決することにした。昼休み、いつものようにからんでくるI君の胸ぐらを私はつかんだ。「オレをヒイキしてるのかどうか、担任の先生に聞きにいこう。職員室へいっしょに来い」。そのとたんにI君は泣き顔になった。オロオロして逃げ出した。あっけない結末だった。 それ以後、I君は遠くから私の悪口を言うことはあっても手を出すことはしなくなり、そのうちクラス替えで離れてしまった。後で聞いたところでは、I君のご両親は2人とも学校の先生で、そのためI君は先生と生徒の関係について特別に敏感だったらしい。 お互い社会人になって数年してから、満員電車の仲でI君に会った。多少照れくさかったが笑顔であいさつした。人込みに押されながら下りる私を、I君は何か一言いって見送ってくれた。声は聞こえなかったが、口の形で「アノトキハゴメンナ」と言ったように見えた。それっきりI君とは会っていない。 過ぎてみれば笑い話である。このころのいじめと今のいじめが同質のものかどうかもわからない。しかし、案外、いまいじめられている子たちを救うヒントになるかもしれないと思う。時に捨て身の作戦で体当たりをしてみるのもいじめ克服法になるのでは。おとなになっても、この社会ではいじめのタネが尽きないのだから。 いじめた経験も、私にはある。やはり小学校の高学年のころ、クラスにTさんという女子がいた。父子家庭の子で、よく学校の行事に幼い弟を連れてきて面倒を見ていた。あるとき、学校で児童の作品展が開かれていたときに美術室の片隅にあった竹ひごをTさんの弟が持ちかえってしまった。生徒たちの間で「学校の備品が盗まれた」という騒動になった。「家まで押しかけて取り返せ」というクラス決議に押されて私がTさんの家にいく羽目になった。 長屋の1軒のTさんの家。たてつけの悪い玄関の戸を開けて出てきたTさんは、竹ひごの1束を黙って私の手に渡すと、ピシャリと戸を閉めた。つづいてパチンと頬を張る音と弟の泣き声。私はその場を逃げ出した。クラスの正義派に、かこつけて私はTさんに対するいじめに加わっていただけではないか。この体験の方が、自分がいじめられたよりもはるかに痛烈に私の胸に刺さっている。 人間、いじめられたりいじめたりして成長するものだと思う。そのなかでいじめに耐える力も、いじめを反省する力もついてくる。タテマエだけで「いじめのない社会」をうたってもできはしない。あるがままのいじめの実態を見つめ、おとな自身が自らのいじめを反省し、本気で子どもの相談相手にならなくてはタテマエはタテマエで終わってしまうだろう。 アメリカの中間選挙で、ブッシュ大統領が手痛いお灸をくらったようだ。国際社会のいじめっ子のガキ大将だって、ああなるのだから、みなさん、いじめはやめましょうね。 <11月号コラム> 厳罰で重罪を防げるだろうか 「飲んだら乗るな 乗るなら飲むな」という交通標語は、すいぶん古いものではないだろうか。「狭い日本 そんなに急いでどこに行く」よりも古そうだ。そんなに昔から飲酒運転が横行していたのだろう。幼い3人の子どもたちを犠牲にした福岡の事件から、飲酒運転取り締まりの動きが厳しくなった。被害者やその家族の思いからして、加害者に厳罰を求める気持ちはよくわかる。 しかし、毎日のマスメディアの報道によると酒酔い運転はいっこうに減る兆しはないようだ。公務員、とりわけ他人を取り締まる立場にある警察官、事故に対処する消防官などの違反も多い。プロのドライバーの代表格である長距離トラックや市営バスの運転手にも違反者が出てきてびっくりする。酒酔い運転に厳罰の適用を求めるめ声が高いが、それだけで酒酔い運転をなくせるのだろうか。 私が連合通信社の記者だったころ、労働組合の依頼で東京〜大阪間を夜を徹して走る長距離トラックの同乗記を書いたことがある。運転手はまだ独身の青年で、きわめてまじめなプロのドライバーだった。16トン積みの大型トラックを自在に操りながら、キチンと交通規則を守り、周囲の車に気を配る。相手が小型のマイカーでも脅すようなことは決してしない。乗せてもらって実に気持ちがいい運転ぶりだった。 しかし、夕方に東京を出て明け方に大阪に着く徹夜運転である。途中の休憩所でいくらか仮眠を取る。運転席の後ろに簡易ベッドがあるが、「寝心地がいいと寝すぎますから」と青年はハンドルの上に足を載せ、運転席で眠りに就く。定刻を寸分違えず目覚めると、間髪をを入れず発進する。おどろくべき正確さだ。大阪のターミナルに着くと、現地のスタッフとともに荷卸しをする。長時間運転の後なのに疲れも見せない。 ようやく労働から解放されると、小さな紙袋を抱えて仮眠室へと向かう。紙袋の中身を聞くと、ニコッと笑って見せてくれた。アンパンが3つ入っていた。「僕、酒が飲めないから、これが睡眠薬ですよ」と言った。彼はその夜にまた再び、荷物を積んだトラックを駆って東京へ帰る。短時間で仮眠も食事もシャワーもすませて行く。うるさいターミナル内の仮眠室で、どれだけ眠れるのか。「睡眠薬」は絶対必要なのだろう。 交通運輸労働者には交代勤務がつきものである。人間の体の自然のリズムに反する夜勤や準夜勤、早朝勤などは珍しくない。必須の睡眠も昼間にとったり、短くまたは細切れにとったり不規則になる。限られた時間を深く眠るために、私を乗せてくれた彼と違って酒を飲む人も当然いる。運転時には醒めているつもりでも、つい度を過ごして酒気帯び状態で運転する羽目になることもあろう。 車の運転をする交代勤務労働者は他にもいるだろう。警察官や消防官も含まれる。そういう勤務の人たちが睡眠時に酒を必要とする度合いはどんなものか。交代勤務が人間の体に与える影響は、労働科学研究所あたりで盛んに行われていたようだから、何か役に立つ情報があるかもしれない。酒に依存せずともよく眠れる方法があるか、飲んだ量と運転を控える時間の関係はどうかなどを広く世間に広報してもらいたい。 飲酒運転の結果生じる事故の報道を見ると違反者にとても同情できないものも感じる。別に交代勤務などではなく、普通の勤務の後で一杯やってそのまま車を運転して帰ることを何とも思わず、その結果、大事故を起こす人がいる。しかし、プロのドライバーだったら、そんな人はまずいない。彼らが酒酔い運転に問われる場合の多くは、仮眠のためにやむなく飲んだ結果だろうと思われる。 都市生活の24時間化で、不規則な労働と睡眠を強いられる人々は多くなる。その背景を無視して一律に厳罰主義に走っても、飲酒運転は根絶できない。酒と運転労働との関係の科学的な追求をきちんと深めて、飲酒運転に走りがちの人たちにもっと有益な情報を幅広く提供することに、社会全体として取り組むべきだと思う。 話は違うが、ミサイルや核兵器の実験をやりたがる人たちを止めるのにも、制裁という厳罰主義だけで可能なのだろうか。国連安全保障理事会の常任理事国が、自ら率先して核兵器の放棄を宣言することで、今の流れを完全に逆転させることができる。韓国出身の新しい国連事務総長と、そもそも非核3原則を掲げる日本国の最高の出番じゃないの、安倍晋三さん。 <10月号コラム> 恐ろしい国にならないため この原稿が活字になるころは、日本国の新しい首相が決まっているはずだ。私には(そして多分、読者のみなさんにも)選挙権も被選挙権もない選挙で、しかも投票前からだれになるのかが決まっている。ちっとも面白くない。「日本を『美しい国』にする」とか言う、あの人がなるんだろう。なんで、あの人がいいのかわからない。世論調査で1番人気だそうだが、どうして人気があるのか。 小泉さんの1の子分で官房長官を務め、北朝鮮に対する「毅然とした態度」とかが売り物だそうだが、その「態度」で何かが解決したとはいっこうに聞かない。「日本国憲法改正」を公約にしているが、「改正」以前から解釈しだいで日本は核武装や核使用もできるし、「敵基地」への先制攻撃も、米軍との世界的な共同作戦となる集団的自衛権の行使も可能だと考えている物騒な人らしい。 何でも母方の祖父が岸信介元首相、実の父が総理・総裁の座を求めて果たせなかった安倍晋太郎氏ということで、「毛並みがよい」ことになっている。私には、いっこうに「毛並みがよい」ように思えない。1960年安保闘争を体験した私の心のなかには、それまでのアメリカに対する基地貸与条約を、実質軍事同盟化する現行日米安保条約改定を強行批准した岸元首相への特別な思いがある。 国会請願デモで繰り返した「アンポ・ハンタイ」「キシヲタオセ」の私と仲間たちの掛け声は、今なお体の中心で脈打っている。当時幼かったあの人も、お祖父さんの前で「アンポ・ハンタイ」と叫んで苦笑を買ったらしいが、幼児でさえ覚えてしまうほど、日米安保条約反対は国民の世論となっていた。そんななかで、世論には耳をふさいで「声なき声は私を支持している」とうそぶき、今日までの禍根を残したのが岸元首相だった。 「お祖父さんのDNA」だかなんだか知らないが、この人物がさらなる日米軍事同盟の強化、世界的な日米共同作戦体制の総仕上げへと向かい、それに見合っての改憲に踏み出し、憲法と一対の教育基本法の改悪へと進むのは自民党政治の当然の帰結だろう。これは個人の家系の「毛並み」でも「血筋」でもない、日本の戦後史の負の側面の継承発展に他ならない。それが亡国の道へと通じているとは、あの人は想像もしないだろう。 自民党の長老格の中曾根元首相によると、「いまはポピュリズムとナショナリズムの時代」だそうで、この2つの流れで国民を操ることが政治家として成功する秘訣らしい。あの人は、世論調査の人気取りー「ポピュリズム」で成功し、北朝鮮や韓国、中国に強面のポーズを取って「ナショナリズム」の演出も怠らないから、そこそこ成功するのだろう。しかし、本人の「成功」が日本の成功になるとは限らず、「美しい」どころか「恐ろしい国」にされては困る。 「ポピュリズム」と言ったって、私たち国民がバカで軽佻浮薄だから生じるわけではないと思う。むしろ、マスメディアが煽るからこそ妙な人気取りが通用するのではないか。これまでの「小泉劇場」は、まさにテレビも新聞も雑誌も、メディアというメディアが挙げて共同制作に走ったからできたことではなかったのか。小泉さんの思わせぶりの一言に尾ひれを付けてはやし立てる。そんなショウがいまの「安倍人気」にも続いている。 当面の衆院補欠選挙、来年の統一地方選挙と参院選挙のいくつもの山場を控えて、新首相は、やるに決まっている消費税の大幅引き上げも言葉を濁して時期を明らかにしない。 「靖国神社参拝は当然」と言いながら、自分が参拝したことも、これから参拝するかしないかも明らかにしたがらない手法とよく似ている。「信念の人」には程遠い、実は意外に底の浅い「ポピュリズム」の人ではないのかと私は疑っている。 これからの政治家は「ポピュリズム」に走るよりも、謙虚に国民の声と要求を聞くべきではないのか。上っ面の「ナショナリズム」を振り回すよりも、この国の政治、経済、外交に真の自主性を貫く姿勢こそ大事だ。アメリカの世界戦略に無批判につきしたがうよりも、対等の立場で率直な苦言を呈する日米関係を築いてこそ本当のナショナリストだ。 日本の政治家にとっては、戦争放棄・戦力不保持を国際公約した日本国憲法を堅持し、その立場で世界から核兵器を廃絶する戦略をしっかり立てることが一番成功する道だと私は思う。まずアメリカをはじめ世界の核保有大国に核兵器を放棄させ、イランや北朝鮮を含めて核武装しようとする国にその無駄と無用を説得するように仕向けること。愚直にこの道を追求すれば、日本はまちがいなく世界一「優しい国」になれるはずだ。 <9月号コラム> どこまで広がる天皇と靖国の矛盾 日本経済新聞がすっぱ抜いた靖国神社へのA級戦犯合祀に対する昭和天皇の不満発言をめぐって大騒ぎである。右派ジャーナリズムの間では、「中国に媚びるために天皇を政治利用する財界一派の策動だ」「大誤報か?」とニュース価値を否定する論評が続出している。「日経新聞は財界の機関紙、御用新聞」という、一昔前なら左翼が言ったような批判を右翼が書いているのを見て思わず苦笑いしてしまった。 第2次世界大戦の戦争責任について、天皇の発言が世を騒がせたことは1970年代にもある。訪米後の1975年10月31日、日本記者クラブの会見で昭和天皇は「戦争責任についてどう思うか」という英紙タイムズの記者(日本人)の質問に対して、次のように答えて国民を唖然とさせた。 「そういう言葉のアヤについては、私(天皇自身)はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」と言ったのである。戦争責任という重大な問題を「言葉のアヤ」と切り返した。7年前に死んだ私の義父は当時、その言葉を新聞で読んで激怒した。「なんという男らしくない、卑怯者の言いぐさだ」と罵った。決して革新的とは言えない、明治産まれの九州男児、保守主義者を自認していた義父である。 その同じ昭和天皇が1988年4月28日には富田朝彦侍従長にA級戦犯の靖国神社への合祀に強い不満を示し、「だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と語ったそうだ。富田氏自身が天皇の言葉をメモしたものだと報道された。これもまた「言葉のアヤ」なのだろうか。確かめようにもメモされた人も、メモした人もこの世にいない。発言を別の人の言葉だとする説や、天皇が臣下の神社に「参拝」と言うはずはなく「行啓」と言うはずだ、だからメモは嘘くさいなどという論評もある。 天皇とはやっかいな立場である。昭和天皇は半生を「君主」、後半生を「象徴」と置き換えられたもののその立場から、あるときは「言葉のアヤ」で逃げ、別のときは身内に本音らしき言葉を吐き、いろいろと使い分けしなければ役を果たせなかったのだろう。終戦直後には、天皇は辞意を表明したがったが周囲から止められて果たせなかったという。自分でリング上から「不細工な試合ですんまへん」と謝った19歳のボクサーが、怪しげな判定でチャンピオンとなり、世間のブーイングを浴びている以上にカッコ悪い立場に置かれたのが戦後の昭和天皇だった。 昭和天皇に対するブーイングは、表面的には聞こえなかったかもしれない。しかし、天皇の名において開始され、同じく天皇の名において終わった戦争に対する怨嗟の声は地を這い、世の中にあふれている。その中で天皇で有りつづけることは「現人神」ならいざ知らず、並の人間には容易なことではない。時と場所、場合に応じて言葉の使い分けをするなどは悩みのほんの一部でしかないのだ。 遺族会には入っていなかったが、義父は靖国神社の春、秋のお祭りにはよく参拝に行っていた。自分のすぐ下の弟がフィリピン上陸作戦で戦死し、靖国神社に合祀されていたからだ。天皇が靖国神社公式参拝を中止したときには義父は何も言わなかった。A級戦犯合祀についても意見を聞いた覚えはない。ただ「言葉のアヤ」発言には本当に怒り、それ以後天皇に何も期待しなくなっていた。 私の義父の立場はともかく身内の命を「天皇の聖戦」に捧げさせられた遺族会側としては、彼ら「忠臣」に対する天皇の感謝を公式参拝で表明してもらわなくてはならない。遺族会が天皇の参拝を求めて得られず、せめてその代理としての首相の公式参拝を要求するのは、別の形での「天皇の戦争責任」に対する追及と言えなくもない。 「天皇の聖戦を戦って死んだ忠臣」だけを祭る靖国神社という仕掛けは、はなはだ大きな矛盾を孕んでいる。靖国神社が宗教法人格を持とうが持つまいが、設備や儀式を変えようが変えまいが、基本的な性格が「天皇の敵と戦った死者を祭る施設」である以上、近現代を貫く天皇制の問題と切り離して考えることはできない。そこでは、常に天皇の「敵か味方か」が問題になる。小泉首相の「人間死ねばみんな神、仏」の平等な扱いではないのが靖国神社の本質なのだ。 天皇がA級戦犯合祀に不満を示したのは、煎じ詰めれば「やっかいな戦争にワシを巻き込んで死んだ連中にまで頭を下げにゃあかんのか」ということだろう。じゃ、あんた自身には国民を巻き込んだ責任はないのか、と言いたくなる人はゴマンといる。そういうややこしい問題を次期自民党総裁・総理になる人は解けるのだろうか。どうやっても解けないのではないかと思う。 <8月号コラム> 北朝鮮のミサイル発射に思う 7月4日(日本時間5日)、アメリカの独立記念日に北朝鮮から7発とも10発とも言われるミサイルが発射された。約500キロ飛んで、ロシア沿岸から100キロぐらいのところにドカドカドカと落ちた。沿岸住民は驚いた。ナホトカでは、北朝鮮総領事館や市役所に市民が抗議に押しかけたという。北朝鮮がロシアに事前通告したのかどうか知らないが、場合によっては船舶や航空機に被害が出ることを考えると乱暴な話である。 そのナホトカの隣の帝政ロシア時代以来の軍港、ウラジオストクにはアメリカ第7艦隊の旗艦、ブルーリッジがいた。ミサイルの飛跡をさらに延ばすと北海道に至るが、その小樽には同じく第7艦隊の空母、キティホークがいた。北朝鮮ミサイルのうち、最も射程距離が長い1発は、第7艦隊と第3艦隊を指揮下に置くホノルルの米太平洋艦隊総司令部があるハワイに向けて撃たれたという。 これが事実なら、北朝鮮は米第7艦隊とその総司令部を一挙に攻撃できる構えを見せたことになる。第7艦隊に基地を提供する日本全土が射程距離に入っているのは言うまでもない。北朝鮮側の声明では「通常の演習」だというが、かなり大規模な挑発、恫喝、示威だと受け取られても仕方がないだろう。 しかし、北朝鮮側からみると先に挑発、恫喝、示威を行っているのはアメリカ、それに追随する日本だということになる。日本全土を標的にする北朝鮮のミサイルの数は200発だそうだ。ところが、北朝鮮全土に向けられた米第7艦隊のミサイルは同じく200発あって、しかもそれは米軍が使用可能なミサイルの一部でしかない。 世界の軍事費年間総額1兆ドルの半分、5000億ドルを使うアメリカ。そしてあの広大な中国よりも多い世界軍事費の4%、年間400億ドルを使う日本が同盟して、いつでも北朝鮮を攻撃できる状態にある。これも恐るべき挑発、恫喝、示威と見られても止むを得まい。痩せても枯れても主権国家、「瀬戸際外交」と嘲られようと、やられたらやり返す構えを見せずにはいられない。 北朝鮮にとっての救いは、同胞の国である韓国や伝統的な友好国である中国、ロシアの存在だろう。それでも韓国はアメリカとの同盟にからめ取られて苦悩し、中国やロシアも一方ではアメリカに反発しながら米軍との合同軍事演習を行ったりしている。お前さんたち、ほんとに友好国なのかー試してみたくなる北朝鮮でもあるのだろう。 ところが思惑はどうあれ、こんどのミサイル連続発射が果して北朝鮮に得になるのかどうか、これがなかなか見極めがつかない。むしろ得をするのはアメリカではないかと思えてしまう。例えば日米軍事同盟を運用していくのに、はなはだ都合のよい口実として受け止められてはいないだろうか。 目下の米軍再編を円滑に進め、沖縄を引き続き犠牲にするのも止むを得ない。日本自衛隊は、ますます米軍と緊密な共同作戦体制を敷くのだ。横須賀に米原子力空母が配備されるのも仕方がない。金ばかり掛かって効果のほどが疑わしいアメリカのミサイル防衛計画にもとにかく協力するしかない。ゴチャゴチャ文句を言うやつは、北朝鮮のミサイルが撃ち込まれてもいいのか、「非国民」だと決めつけられかねない。 北朝鮮としてはアメリカの金融制裁によって、かなり困難な経済状況がつくり出されているから、軍事力を背景にして対等の対話の場にアメリカを引き出し、制裁を解除させようという戦略なのだろう。しかし、実際にそれが可能か。国際社会で通用するのか。むしろ北朝鮮を取り巻く各国の平和愛好勢力を困難に陥れ、戦争屋どもを勢いづかせるのが関の山ではないかと思う。 もしかすると、北朝鮮指導部のなかにアメリカをはじめとする世界各国の戦争屋と気脈を通じる勢力があって、あえて挑発、恫喝、示威と取られる行動を引き起こすように仕向けているのかも知れない。軍事優先ー「先軍政治」を掲げる北朝鮮のような国は、戦争屋の謀略に引っかかりやすい。戦争屋はどこの国にもいる。「偉大なる将軍さま」と崇められる人物といえども、いつのまにか戦争屋の片棒を担がされていないとも限らない。 日本国民としては、どんなに建前に過ぎないと見られようとも、日本国憲法の第9条を盾にして自国内部はもちろん、アメリカやアジア諸国の戦争屋どもにとことん反対して運動を広げる他はないだろう。それが、平和と安全保障へ向かう一番の近道だと思う。ミサイルにはミサイルをと肩をいからせるなら、軍拡と戦争の悪循環から抜け出すことはできないだろう。 <7月号コラム> 「愛国心」ってなんだっけ? 『月刊現代』7月号の「抱腹舌倒 永六輔VS矢崎泰久 人生道中膝栗毛」の第15回を読んでいたら、矢崎さんがこんなことを言っていた。「こないだ預金通帳を持って行って、少しおカネが入っているといいなと思いながら記帳したんですよ。(中略)でも、そのときは、チッといって止まった。で、出てきた通帳を見たら半年間の利息が1円ですよ、たったの1円(笑)」 ヘーエ、矢崎さんほどの著名なジャーナリストでも、私みたいな経験があるんだ。私も半年に1回だか1年に1回、毎度かの無愛想なATMがチッと鳴って、お利息1円と思い知らされる。矢崎さんは「半年間の利息をチッてやられるのは、耐えられないほどのさびしーい気持ちになるね(笑)、この国はオレにいったい何をしてくれたんだ、という思いになる」と言う。 すかさず、永さんが「そういうことがわかってくると、教育基本法の改正で議論されてきた愛国心なんて、バカバカしくなるでしょう」と突っ込む。矢崎さんは「愛国心なんて国が押しつけるものじゃない。うまい蕎麦だったら、言われなくたってうまいと思う。国もそうでしょう。いい国だったら、みんな好きになりますよ。そこに住んでいることが楽しくて、こんな素晴らしい国はないと思えば誰だって国を愛しますって」と答える。 さすが、矢崎さん、永さんである。ATMの情けない音が愛国心論議にまで発展するとは思わなかった。私だったら公金注入まで受けた銀行が、とてつもない好決算を迎えているのに「お利息1円」とは何事だ、ぐらいのところで思考停止だ。さて、愛国心ってなんだっけ。論議の的に仕立てられている教育基本法の「改正」案では、自民党と公明党は次のように定義している。 「伝統と文化を尊重し、それらを育んだ我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し国際社会の平和と発展に寄与する態度」なのだそうだ。きわめて長い文章だが、含意はすこぶる抽象的でわかりづらい。そもそも「伝統と文化」とはなにか。「我が国と郷土」とはなにか。「国際社会の平和と発展」とはどのようなものか。たぶん、読む人にとって解釈はさまざまだろうと思う。 だいたい、「愛国心」の重要性を強調したがる人たちは、これらの解釈についてかなり恣意的である。というよりも特定の解釈を国民に押しつけたがっている。「伝統と文化」を言うとき、日本近代史の戦争と侵略は塗り消されそうだ。「我が国と郷土」では、竹島や尖閣列島問題では目を三角にしても、沖縄と本土にうんざりするほどある米軍基地に対しては寛容そのもの。「国際社会の平和と発展」とは、アメリカ世界戦略、グローバリズムに追随することではないのか。 そもそも、この種の人たちにとって、わが日本の「国体」は主権在民ではなく、象徴天皇制ですらない。本人にとっての「国体」は日米軍事同盟そのものなのだろう。私には、そういう「国体」を奉じる「愛国心」なるものは、まったく有害無益と思えるし、そういう「愛国心」の押しつけに反対することが口幅ったいが、私なりの愛国心だと思う。日本を曲がりなりにも真の平和と民主主義をめざす国にしていく道こそ、国を愛する道ではないだろうか。 残念ながら、この国はいま、「いい国だったらみんな好きになる」ほど自然に愛国心が育つ状態ではない。子どもたちや女性に、障害者や高齢者に、失業者や貧困層にとって、きわめて過酷な状況がある。だからこそ、一部の人たちは焦って「愛国心」の押しつけに走る。「お国になにかしてもらうことばかり考えずに、自分はお国のためになにができるか考えろ」などと言う。そういう本人たちがどこまで真に日本や日本国民を愛しているのか、はなはだ疑問に思う。 日本の近代史を戦争と侵略の歴史として批判的に検証しようとすると、「被虐史観」だなどと非難する人たちがいる。しかし、その人たちが日本の戦後史を見る視点こそ「被虐史観」だと思う。日米軍事同盟の軛に苦しみつつも植民地もない無資源国家が、ここまで経済を発展させることができたのは、平和憲法の下、働く国民の知恵と勤勉さが発揮されたためだということを忘れているからだ。 戦前・戦中の日本を賛美し、戦後の平和と民主主義をめざす営々とした国民の足取りを悪しざまに罵る「愛国者」たちよ。あなたたちこそ、「反日」ではないのか。 <6月号コラム> 「健康不安」の行き着く先は? 肺ガン治療が在宅に切り替わってすぐ、読み損なっていた古新聞をひっくり返していたら、ちょっとおどろく記事が載っていた。年配の女性が1000万円も健康食品や栄養補助食品と称するもの、いわゆるサプリメントを買い込んで、家中に山と積んでいるという話だ。その女性の娘さんが困って新聞に投書したあげく、新聞記者がそのお家を訪ねて、なぜそんなことが起きたのか、実情を取材した記事だった。 私などは1000万円の1000分の1を使うにもあれこれ考えてしまう方だから、なんでまたそんなにとおどろき、あきれてしまう。しかし、記事をよく読んでみたら、その年配の女性の心情に無理からぬものを感じてしまった。女性の夫君は長年にわたり寝たきりで、彼女はたいへんな苦労をして看病したらしい。ようやく夫君を見送ったとき、心配になったのは自分のことだった。 長生きするのはいい。しかし、夫のように寝たきりで周囲に迷惑をかけながら、長生きすることにどんな意味があるだろうか。自分は子や孫に迷惑をかけずに死にたい。それには死ぬまでなんとか自分の世話は自分でできるようにして生きたい。そのために必要ならサプリメントも使えるだけ使ってみよう。幸い、夫君から残された遺産で、その女性はお金には困っていなかった。業者の悪乗りもあったのだろう、買い物は1000万円にもふくれ上がったのだ。 だいぶ前のことだが、「ポックリ願望」という話題がマスメディアで騒がれた。年配の女性の間で「昨日まで元気だったのに、今日はポックリいっちゃったという死に方をしたい」という願望が広がり、それをかなえてくれる寺社にお参りするツアーまで流行ったのだ。おそらくは夫や自分の老親、さらには夫その人まで見とった女性たちが、「死ぬなら長く寝ついたりしたくない」という思いを深くしていたことの反映だろう。それが今はサプリメント・ブームになっている。 私だって、他の人を笑えない。抗ガン剤の副作用を緩和するからと聞いてクエン酸やアミノ酸、老眼の充血が取れるからとブルーベリーとドコサヘキエン酸、だるさが抜けるからとまた別種のアミノ酸とだんだんサプリメントの常用が増えていく。最近、夜間にトイレに起きることが多くなった。そうなるとノコギリヤシとかの効用を説く新聞広告に目がいく。今やサプリメントのメーカー、販売会社は新聞広告の上得意になっている。どういうわけか、テレビのCMよりも多い。私のような新聞好きは、つけこまれそうだ。 考えてみれば、長寿はめでたいことであるはずだ。しかし、その反面、長寿にともなう「健康不安」が広がっている。とりわけ医療と介護という老後生活の柱をめぐって、不安を抱いている人が多い。安心して医療や介護を受けることができない年寄りは、周囲のためにも、自分自身のためにも早く死んだほうがいいんじゃないかと思わせる風潮が、世間にあると私は感じている。 おそらく、かつての「人生50年」の時代には、この種の「健康不安」はなかっただろうと思われる。ボケたり、寝込んだりする間もなく年寄りはさっさと死んでいったに違いない。しかし、「人生80年」の今は、よほど用心して長生きしないと、周囲の「迷惑」になってしまう。世話してくれる人が「迷惑なんて思わないよ」と言ってくれても、自分の方から気を回してすくんでしまうのだ。 老後の世話を肉親や家族だけに任せず、社会全体で面倒見ようという趣旨で始まったのが介護保険だった。しかし、保険料はしだいに上がり、介護給付の規制枠はじわじわと厳しくなっていく。その谷間で、ビクビクしているのが年寄りで、私もその例外でない。 介護と結合している医療もまた、高齢者に厳しくなるばかりだ。70歳以上の自己負担が1割から2割へ、場合によっては3割に増やされる、あるいは75歳以上は高齢者限定の負担と給付の別枠に押し込む、そんな医療保険改悪が待ち構えている。 高齢化社会、言い換えると長寿社会は、こういう方向しか目指せないものだろうか。それが若い世代の負担を軽くするためだと言うが、それでは若い世代は最初から長寿をあきらめ、ほどほどでこの世におさらばしろよと言われているようなものである。高齢化の裏側では少子化が進む。そして日本の人口減少が始まった。なんだか、みんなで生マレテスミマセンと言いたくなるような今の日本の社会。それに拍車を掛ける日本政治。どこかで根本的に間違っている。 <5月号コラム> ようやく肺ガンの小康期を迎えて 去る4月1日、肺ガンで入院していた川崎市の病院呼吸器科から退院を許された。昨年11月から、途中1ヵ月の中休みはあったものの、抗ガン剤と放射線照射の治療を受けていた。幸いなことに、私のガンはしだいに小さくなり、後もう1クール(3回)の抗ガン剤投与を受ければ消失するらしい。1回の点滴が3時間ですみ、自宅からの通院でも可能になったことから退院できたのだ。 しかし、初発のガンが消失しても、それで完治したことにならないのがガンの憎たらしいところだ。だから完治ではなく「寛解」という言葉が使われる。本当の完治は、5年が過ぎてなお再発や転移がない場合にだけ言えることなのだ。そこに達する肺ガン患者は5人に1人。まだまだ険しい道のりなのだ。しかし、退院して通院加療に切り換えてもらったのはうれしかった。 ところが帰宅して3日後、猛烈な下痢と嘔吐に襲われた。髪の毛も抜け始めた。病院に行くと主治医の診断は副作用。おまけに肺炎に罹っていることも明らかになった。この肺炎も、副作用で肺の機能が萎縮した結果なのだそうだ。「用心のためにまた入院を」と言われないかとヒヤヒヤしたが、私の職業や生活習慣をよく知っている主治医は、「薬で炎症を抑えて様子を見ましょう」と在宅を認めてくれた。ただし、最後の抗ガン剤投与は、肺炎が治るまで延期だと言う。 入院中は、あまり副作用を体感しなかったので意外だった。「副作用は後からまとまって出ることもあります。逆にガンに対して効果的な作用も続いているということですから心配しないで」と慰められる。下痢と嘔吐は収まったものの、脱毛はますます盛んになってきた。寝床や風呂場が毛髪だらけ。触ってみると、頭髪の層がすっかり薄くなり、頭の地肌に触る。 以前に病院に見舞いにきてくれた連合通信社の前専務理事、打田雅明さんからは、この日が来ることを予期してか、たいへんな励ましの言葉をもらっていた。「相羽さんは、きっと丸坊主のスキンヘッドが似合うよ。ナントカ大僧正みたいで恰好いいと思う」。そのときは互いに笑い合っての話だったが、こうなると信じたい。鏡をにらんで、ホンマカイナと首をかしげている。 こんな具合で蹴つまずいたり、転んだりの療養生活をしている間に、作家でジャーナリストの柳田邦男氏の「がんは本当に免疫で治るか」(文芸春秋5月号)を読んだ。さては新潟大学大学院の安保徹教授などが提唱する免疫療法に対する批判の展開かと思って読んだら、ちょっと違っていた。柳田氏が取り上げている「免疫療法」は、人体が持つ免疫力を薬の投与や体外に取り出した患者のリンパ球に細工をして、再び患者の体内に戻すなどの処置で強化しようとするもので、ほとんどは効果が実証されていないらしい。 安保教授が「ガンは自分で治せる」(マキノ出版)などで展開している無手勝流の免疫療法、つまり手術や抗ガン剤、放射線照射はそれら自体が患者の免疫力を破壊してしまうので採用せず、患者自身の心身の自己管理で免疫力を向上させてガンとたたかおうと主張するものだ。柳田氏が記事で取り上げている化学的、物理的な「免疫療法」とは、まったく違うものに思われる。 柳田氏も、実は記事のなかで安保流免疫療法に触れている。岡山県・倉敷市の医師が患者とともに実践している「生きがい療法」や「笑い療法」だ。前者は患者が自分のガンに客観的に向き合い、目標や生きがいを持って生活し、患者同士が助け合う。そのことで気持ちが明るくなり、それが免疫力の向上になるらしい。「笑い療法」は、医学的にも証明されている笑いによる免疫力の向上を積極的に生かそうとしている。 この倉敷市の医師の安保教授との違いは、手術や抗ガン剤、放射線による治療もいちがいに拒否せず、それらと併用して効果を上げようとしていることだ。柳田氏も評価しているが、こういう常識的なバランスの取れた考え方が私のような素人には心地よい。安保教授の説は、私には過激で、ちょっとついていけない感じがしている。 ともあれ、さまざまな療法が入り乱れ、なかにはかなりいい加減な、まがい療法も混じっているということは、ガンの猖獗にもかかわらず、まだまだ治療法の十分な吟味が欠けているからだろう。免疫療法の体験談を読んでいると、医師がいとも簡単に患者を見放すのに驚かされる。見放された患者は「ガン難民」となり、溺れる者は藁でもつかめと免疫療法にたどりつくようだ。 人間の命や健康のメカニズムは、解明されつくしていない。ガン患者も、自分の主体性を確立して、まっとうな治療法の発展に貢献することができると思う。 <4月号コラム> 自分免疫力をどこまで信用するか 機関紙協会運動の大先達である八田帰一さんから、病気見舞いのお手紙を頂いた。その冒頭で八田さんは次のように書かれていた。 「ぼくの頭にはガンは暗いものとした教条しかありませんでしたので、なんだかウソっぽい感じがしていました。あの文章を読んだとき、この明るさはなんだと訝っていました。兄の『ガン』には暗さどころか楽しさすら感じたのです。すごい人だと思いました」 今年8月で、喜寿を迎える大先輩に、やっとこさ今年4月で古希になる私が、「兄」などと呼ばれると恥ずかしい。おまけに「すごい人だ」などと褒められてしまうと、なんだか身の置き所がない。人生経験豊かな八田さんの眼力なら、私の能天気な闘病記にウソっぽさを感じて当然だろう。 とは言うものの、私の「明るさ」にもいくらかの根拠はある。とにかく、人生70、古来稀なりまで生きたのだから、そろそろ引退してもいいんじゃないのという諦めもあるし、肺ガン患者の5年後の生存率は20%、つまり5人に1人だと聞くと、よし、これからは1年生きれば1年のもうけ、2年生きれば2年のもうけ、チビチビとでも大事に生きようという気になってくる。 それ以上に、ガンという病気、悪性新生物に対して強烈な闘志を感じる。長年の喫煙という悪習の自己責任の結果かもしれないが、とにかく私の体内で勝手に発生して、X線撮影でタヌキの縫いぐるみみたいな格好で、私の左肺の肺門部に居すわっているヤツを見ると露骨な敵意を覚えるのだ。このガン野郎、お前みたいなヤツに食われて死ぬなんざ真っ平だ。どっちの寿命が持つか、とことん競い合って勝ってやるという気になる。 だから、ガンに対して弱気になれない。暗い顔してボヤクなど、とんでもない。ガン野郎を喜ばせるだけだからだ。実は、私のガンが発見された直後、ガン治療では大先輩のSさん夫妻から、最近のガン治療の新潮流、免疫療法についての本と情報をいただいた。それに大いに啓発されたこともある。 免疫療法とは、私たちの体自身が備えている免疫力、自然治癒力を最大限に活用して、ガンを治そうという考え方だ。ガンの伝統的な3大療法ー抗ガン剤の投与、放射線の照射および外科手術のいずれもが、患者の免疫力や自然治癒力を弱めてしまうから、ガン患者は受け入れるなと主張する。それよりも働きすぎをやめ、ストレスの解消を図り、和食中心の食事療法を真剣に行い、ガンに対する無用な脅えや恐れを克服すれば、相手のガンは自然に退縮していくのだそうだ。 いわゆる「医者に見放された」ガン患者のなかで、この免疫療法が取り入れられ、治癒効果も発揮されているらしい。私は3大療法をことごとく拒否できるほど、自分の体の免疫力、自然治癒力に自信が持てなかったし、幸い副作用もそれほどひどくなかったので、抗ガン剤と放射線治療だけは受けた。しかし考え方の基本には、この免疫療法を据えていこうと思っている。 確かに抗ガン剤の投与も放射線の照射も、私の免疫力の保障である白血球を大幅に減らした。治療を中断して白血球数の回復を待っていると、夕方から夜にかけて発熱するようになった。37度台後半から38度台前半の熱が出る。この熱も、免疫療法を主張する人々から見ると、悪いことではないらしい。回復してきた白血球が、その免疫力を発揮してガン細胞を攻撃している。ガン細胞は熱に弱く、白血球は逆に熱に強い。体温が上がるのは白血球が有利にたたかいを進めているからだと言う。なるほどと感心する。 免疫療法はガン治療に限らず、他の病気にも効果があるらしい。ある意味では、「病は気から」の考え方を徹底し、人体の自然治癒力そのものに依存しようというのだから、これは政府がしきりに値切りたがる医療費の大幅な節約にもつながる。新潟大学大学院教授の安保徹先生など、免疫療法論者のさらなる活躍を期待したい。 などと、知ったかぶりを並べているうちに2回の検査で白血球数の回復が確認され、3月から再入院して、2サイクルの抗ガン剤の点滴投与を受けることになった。1回のサイクルが8日間、途中に1週間程度の副作用の観察期間を置くために、再入院の日程は1ヵ月以上になりそうだ。大いにヒーローを気取りたいところなのだが、ヒーローを支えてくれているのは機関紙活動の友人たち、先輩たちである。 かつて「丈夫一式」が売り物だった私は、病気の人、体の弱い人に対して通り一遍の同情心しか持てなかった。今は命と健康の大切さを深く自覚し、さまざまな形で闘病を支えてくれる仲間の心尽くしに甘えている。自分を幸せだとつくづく思う。 <3月号コラム> 元気をくれた本ーある画伯伝 かつての新聞労連副委員長で日本機関紙協会理事長だった井口幸久さんから、本を1冊贈られた。題して『小伝 弥勒(みろく)先生』(西日本新聞社刊)。現在は職場に戻って西日本新聞社編集局文化部次長である井口さんが、2003年から2004年まで16カ月にわたり西日本新聞宮崎版に連載した「描いて描いて60年 画家・弥勒祐徳」を再構成した新著である。私の病気ー肺ガンへのいたわりの手紙とともに送られてきた。 私は寡聞にして、この画家の名も業績も全く知らなかった。今年、87歳になる人だ。早くに父を失い、母子家庭で育ち、「クレヨンは宝物だった」ような暮らしをする。やがて戦後の新制中学の英語兼美術の教師となり、ある夏の夜、自宅に飛び込んできた1匹の大きな蛾を見て、自然の美にめざめる。蝶ではなくて蛾で開眼したのだ。4人の子どもに恵まれながら、赤貧洗うがごとき暮らしが続くなかで、夫人は美容師になって家計を支えていく。その夫人も絵が好きで上手だった。 ここで、井口さんの著書の要旨を語るつもりはない。だが、この魅力的な画家の半生と画業を紹介する、この本は実に美しい。井口さんの文章が縦糸に、そして画家本人の挿絵が横糸になって美と醜、自然と不自然、創造と破壊などの矛盾をはらむ未知の世界へと私を誘ってくれた。写真家・小河孝浩さん撮影の肖像も、このモダンにして野蛮な(?)画伯の真骨頂を伝えている。 例えば、群馬県・水上温泉で見つけた仲居さんに「女性の美を発見した」画伯は次のように言う。「引き締まった顔、醜い形かもしれんが強さがありましたな。この人を見た瞬間、本当の女性の絵が描けるっちゃないかと思ったですな」。井口さんが「美しいモデルはデッサンの対象、単なる練習に過ぎないと弥勒先生は考える」と解説する。さらに画伯は「ポーズをつけて、いかにもそれらしい形を描くことになるが、女性を描くことにはなりませんな」と言いきる。 確かに「美人画」も絵画のジャンルには違いないが、そこで観念化、抽象化された「女性美」は、本当は美ではないのかもしれないと思う。この文章には、水上温泉の雄大な自然を背景に湯浴みする裸女群像の挿絵が描かれている。適度に省略された描き方なのに、裸婦たちは存在感、生命感にあふれていて、たくましく、かわいらしい。こんな文と画の組み合わせが約50編もつづく。その力感に圧倒されてしまう。 井口さんは「あとがきに代えて」で、なんと「敗北宣言」をしている。弥勒画伯は「知れば知るほど、どこか遠くに行ってしまう」人だ、隠しごとをしたり、自分を飾ったりしない人なのに、書いても書いてもつかみきれない奥行きの深い人だと言う。伝記作者としては、サジを投げた格好だが、どうしてどうして、その井口さんの敗北の文章がまたよいのだ。例えば、この「あとがきに代えて」のなかで、弥勒画伯の健康についての含蓄のある一文に出会った。 「私(井口氏)が思うのは、健康について多くの人が考えるのと逆のロジックである。つまり、『先生(弥勒画伯)は元気である。だから、体が動く』のではなく、『先生は体が動く。だから元気なのだ』と。(中略)こうも言い換えられよう。先生は『元気だから絵が描ける』のではなく、『先生は絵を描くから元気なのだ』と」。折りから闘病中の私には、この言葉は思いも寄らぬ励ましになった。私だってとにかく下手でも文章を書く、だから元気なのだと言えるだろう。井口さんは、この文章を読ませたいばっかりに、私にこの本を贈ってくれたのかもしれない。 井口さんは幸福な人だ。こんな画伯と出会い、その心の内と外を自らの光で照らし出している。記者とは、出会いが命の職業だ。どんな人にもドラマがあり、物語があるが、それに光を当てるためには、記者としての修練と成熟が要る。何よりも取材の相手から信用されないことには書けない。 弥勒画伯の夫人、マスエさんは2001年10月、自宅で足を骨折したのがきっかけで寝たきりになる。「妻がいるから描ける」という画伯は、病院からあえて夫人を自宅に引き取って介護を続けている。弥勒家に暗さはない。弥勒先生が蹴散らしてしまうからだ。マスエさんの病状は安定していて、世話の行き届いた美しい状態には介護の専門家が舌をまくそうだ。ウン、ますます命と健康をだいじにする人々の思いが伝わってくる。私はこの1冊の本から、しっかり元気をもらった。 <2月号コラム> 「ブタもおだてりゃ木に登る」のだ 入院中の呼吸器科病棟で、「相羽さん、あなたはあなたの肺ガンを治すプロジェクトチームのリーダーです。私たち医療スタッフのチームを率いてがんばって下さいね」と、うら若い女医のK先生に言われたときには、びっくりしてとまどった。K先生や主治医のO先生、看護師さんたちを初めとする専門職の人たちの指示や措置の下、ガンの野郎と最前線で撃ち合いをする下級兵士が自分だと思い込んでいたからである。 ヘェ、この私がリーダーなんだ、カッコイィではないか。改めて、病院の玄関に掲げられていた「当院は患者様の人権をたいせつにします」というモットーを思い出した。病院の主人公は患者である私自身なのだ。私の肺ガンを治すプロジェクト!「プロジェクトX」では最近、終了したNHKテレビ番組の真似になってしまう。ここはアルファベット最後の文字として「未知のもの」という意味もあるZ」を使って、「プロジェクトZ」にしよう。 K先生から、こう言われたと周囲の看護師さんやX線技師さんなどに吹聴すると、みんなニコニコして「そうです」「そのとおりですよ」と言ってくれる。ますますいい気持ちになった。どう見ても大したリーダーではないが、小学校の運動会の騎馬戦で騎手になったぐらいの誇りは感じる。痛い注射や検査のための採血も、よきにはからえとガマンできるようになった。その程度のことで、リーダーがジタバタしてはみっともない。 しかし、まもなく、リーダーたる私は重大な決断を迫られた。放射線の照射と抗ガン剤の点滴投与を始めて1カ月、主治医のO先生から「外科手術が可能になったが、受けるかどうか」と問われたのである。最初は直径6センチもあった腫瘍が4センチに縮み、併発していた周辺の肺炎も収まって、今なら手術でガンを切除できるというのだ。ただし、ガンの位置が左肺の上下2室に掛かっているため、左肺の全摘出が必要だとのこと。 左肺を全部取ったら、右肺だけの片肺飛行になりますね。「ええ、しかし、それで生きておられる方はたくさんいます。呼吸困難が起きるようだったら、酸素供給のボンベや機械もあるし」。私の職業はフリーランスライターです、取材やインタビューに出歩かなくてはなりません。その行動に制約を受けることになりませんか。「なるかもしれません。無理は効かなくなるでしょうね」。 以前に同室の患者さんが酸素供給機をレンタルして目宅療養に切り換えるために、業者の説明を受けているのを横で聞いていた。家庭電源で使えるとはいえ、かなり重そうな機械だった。火元に近づけないこと、トイレや風呂場にも行ける場所に設置すべきことなど細々とした注意があり、ご本人はもちろん、傍聴していた私も憂鬱になった。あの酸素供給機を抱えて家のなかですくんでいる生活を想像すると、気が滅入った。 今の内科的療法でも、私の肺ガンは小さくなりました。同じ療法を続けることはできないのですか。「できます。しかし、そうなると手術の機会は失われます。ガンも小さくなりますが、周辺の健全な組織も副作用でボロボロになって手術に耐えられなくなるからです。ここで手術するのか、内科療法を続けるのか、選択の瀬戸際ですね」。外科と内科のどちらの療法が効果が大きいのですか。「どちらとも言えません。延命とか生存率からみて、結果はほとんど同じでしょう」その瞬間、私はひらめいた。片肺になって縮こまる生活よりも、両肺をだましだまし使って、何とか仕事を続けながら、生きられるだけ生きていこう。内科療法でガンが抑えこめるのなら、それでいいではないか。家族や仕事の関係者の方々に迷惑を掛けることはあるかもしれない。しかし、許してもらって仕事を続けたい。それが私の生きがいであり、生きる力でもある。私は、O先生とX先生、担当のA看護師さん宛に手紙を書いて、その自分の心境を伝えた。 「賢明な選択です」とO先生。「前向きの姿勢がいいと思います」とK先生。「大丈夫よ」と励ましてくれたA看護師さん。私は重大な選択の機会に、「プロジェクトZ」のリーダーとしての役割を曲がりなりにも果たせたらしい。幸いなことに放射線照射や抗ガン剤の点滴の副作用も、私の場合は比較的軽いようだ。よく食べ、よく眠っている。心配なのは、おだてりゃ木にも登るという、あの動物のように肥え太るのではないかということだ。あちらと違って、こちらは煮ても焼いても食えない代物だからである。 |